旅と日常のあいだ

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村上春樹『街とその不確かな壁』感想

村上春樹『街とその不確かな壁』

その街に行かなくてはならない。なにがあろうと――〈古い夢〉が奥まった書庫でひもとかれ、呼び覚まされるように、封印された“物語”が深く静かに動きだす。

村上春樹6年ぶりの長編小説。なんだかんだで新作が出るたびに気になって読んでいる。本作は、40年前に発表されたものの単行本化されておらず幻の小説扱いになっていた「街と、その不確かな壁」(読点の有無がちがう)を新たに書き直したもの。

ジャズが流れ、パスタを作り、井戸が登場し、「もちろん」を連呼。まさに村上作品っぽい要素が満載で「ああ、村上春樹を読んでるわ」としみじみ思うこと多々。作家独自の「らしさ」がこんなにも確立して有名になってるってすごいよな。(でも、ある種の代名詞になってる「やれやれ」は一度も出てこない!)

物語の世界観をじっくり味わいながら、とても楽しめる読書の時間だった。繰り返される「壁」「壁の中の街」のイメージ、水のたまりから外に出ること、影と本体はどちらがどちらであるのか……。何が起こっているのか、どうしてそうなるのかを理屈で考えるというより、この世界のありようを不思議だなと思いつつ、そういうこともあるのかもしれない、ここではそういうものらしいと納得しながらその世界に浸る読書体験。物語は、現実と非現実を、死と生を、行ったり来たりしながら進む。読んでいるうちに、いったい現実と非現実のさかいめとか違いなんてものを、誰がどこに明確に線引きすることができるだろうという気になってくる。

図書館の窓のない部屋で、ろうそくの光のなかで「イエローサブマリンの少年」と語るシーンがとても印象的だった。商店街のコーヒーショップで決まってブルーベリーマフィンを食べる習慣とその情景も。どこにでもありそうだしどこでもないような、見たことのあるような頭の中で想像しただけのような、そんな風景がたくさん散りばめられていて、自分の記憶や思考を刺激される感じがあった。

前図書館長の子易さんがいい。奇妙なしゃべり方や服装の趣味が、なんか変わってるなと思いつつ心惹かれる。言葉遣いのユニークさでいうと『騎士団長殺し』に登場する騎士団長に通ずるというか。

何より、最後まで読み終えて、ちゃんと物語としてオチがついていることに意外性というかびっくりした。読者おきざりでモヤモヤが残るのが村上春樹だと思ってたけど(それが悪いという意味ではなく)、これはそうじゃなかった、と私は読んだ。あとでレビューを見たら結末がわからないとかあっさりし過ぎという声も多くて、いや、私もわかるかわからないかでいったら、わからないことが多い(多すぎる)のだけど、わからないながらも不満になるタイプのモヤモヤは残らず、読み終えてすっきりした気持ちになった。

いま私がこの体とこの思考とで自覚している自分とは別の自分が、別の場所で、別の生き方をしているのかもしれないということを、ありそうな話としてとらえたり、それはそれで希望があるなと思ったり。

▼1980年に発表された「街と、その不確かな壁」の設定をもとにして書かれた長編が、1985年刊の『世界の終りと、ハードボイルド・ワンダーランド』。2023年の『街とその不確かな壁』にも大いに通ずるものがある。『街と~』を読んだあと再読したくなること必至。