旅と日常のあいだ

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朝井リョウ『正欲』 想像の外にあるものを「認める」ことはできるのか

「自分が想像できる"多様性"だけ礼賛して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちいいよな」

これは共感を呼ぶ傑作か? 目を背けたくなる問題作か?

 

正欲

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読み終えたあとしばらく、頭の中に渦巻く感情を言葉にまとめられず。人のレビューをあれこれ巡回し、さまざまな受け止め方や感想を読むうちに、やっと自分なりに咀嚼できたような感じ。自分の内心の痛いところやカッコつけてる部分を、ときにチクチク、ときにグサッと刺してくる朝井リョウらしさが満載だった。

全編をとおして、人は自分の想像の範囲内でしか物事をとらえられない、ということをこれでもかと突きつけられた。正常(とされるもの)と、正常でない(とされるもの)の線引きの絶対的な正解はどこにあるのか。そもそも、そんなもの本当にあるのか?

キーワードとして頻繁に登場するのが「多様性」。今の社会において、多様性というのは認められるべきものだし、それを認めることは正しいということになっている。けれど、多様性を「認める」とは何なのか。いったい誰の目線で、誰のために、何のために「認める」のか。それを認める主体は、自分がマジョリティという安心できる場所に属しているからこそ、マジョリティではないものを「認める」などという態度をとるのではないか?  

この物語の例でいうと、「小児性愛は悪である」という前提は大多数が共有している。でもたとえば、水への性的興奮はどうか? 善悪の前に、そんな現象が存在することじたいを頭から信じない、考えもしない人がほとんどだ。存在しないのだから、思考にのぼらない。理解もジャッジもできない。

そのとき、「多様性」という言葉はいったいどこを指しているのだろうかと考えると、実は極めて限定的で、個人の想像のおよぶ非常にせまい範囲のことしか語っていないのだよなと気付かされた。昨今よく聞かれる「多様性を理解する」というフレーズの、その意味することろの何もなさ、薄っぺらさを思ってゾッとした。たとえがアレだけど、被災地を訪れた人が「元気をあげるつもりが、逆に元気をもらいました!」っていうのと同じようなゾッと感。

それにしても巧みだなーと思ったのは、導入で書かれているとある事件の報道文。読者はまずここを読み(私も含めて)、「自分が想像し理解できる範囲での異常さ・ヤバさ」に、迷いなく嫌悪感をもつ。でも、実はその裏に、想像も理解もとどかない=存在にすら気づくことのない現象が起こっているとは思いもしない。最後まで読んだとき、自分が既存の枠組みにものごとをおさめようとしていること、それをまったく無自覚にやっていることに気づいてガーーーン!と衝撃を受けた。自分が見ているもの、知っていると思っているもの、善悪の判断基準なんて、あいまいで不確かでいい加減。そのことを思い知らされた。

 

余談だけど、何度も何度も出てくる「顔の肉が重力に負ける」っていう表現、わかるようなわからんような、独特すぎて妙に引っかかるわーと思ってたら、同じこと考えてる人がアマゾンのレビューのトップにいて笑った。

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