地図がない――それだけで日高の山は「極夜」を超える「魔境」と化した。
グルメサイトや地図アプリの検索結果をなぞるだけの日常で生は満たされるのか。情報に覆われた現代社会に疑問を抱いた著者は、文明の衣を脱ぎ捨て大地と向き合うために、地図を持たずに日高の山に挑む。だが、百戦錬磨の探検家を待ち受けていたのは、想像を超える恐るべき混沌だった。前代未聞の冒険登山ノンフィクション。
角幡唯介の『地図なき山 日高山脈49日漂泊行』を読んだ。角幡さんの著作は新刊が出るたびにわりと読んでいる。なかでも好きなのは『極夜行』と『アグルーカの行方』。
最新作である『地図なき山』では、探検と思索を繰り返してきた角幡さんの、探検の目的や考え方とその変遷がよくわかる内容だった。地図やGPSを持っていると、自分と対象物(山や風景)との間に距離ができてしまってナマの手触りを感じられない→「脱システム」(角幡さんの重要キーワード)をめざす→地図なし登山を実行する→地図とはすなわち未来予期である、という考えを得る。未来予期がないと人間は安心して生きられないという実感をもつ→その時その場の出会いと判断により、そこにある自然に身を委ねて生きる=漂泊スタイルの確立。ここに至るまでの山での体験や心の動きが細密に描かれていて、ある部分で一緒に山を歩いているようだった。
しかし一切の前情報を遮断して地図を持たずに山に入るといっても、どこまでの情報を排するのか、自力だけで進むのかはボーダーが難しいというか、自分がどこまでをありとするかのさじ加減だなーと思った。地図を持つのはNGでも、山に立っている標識を見るのはいいのか、とか。現地で出会った登山客や釣り人から周辺の情報を仕入れるのはありなのか、とか。角幡さんにも迷いがあったようで、ところどころ言い訳じみた理由をつけてるな~という点もあった。それが悪いというわけではないけれど。
この本だけでなく最近の角幡さんの文章によく出てくる「43歳ピーク説」は、私もその年齢を超えたからこそ思い当たるフシがありすぎる。認めたくないけれども、共感して受け入れるしかないのかなあという感じ。
あと、生きてることって何なんだろうとしみじみ考え込んでしまった点があった。現代社会においては衣食住のほとんどにおいて自分の手での実感がない、という指摘。自分ではない誰かが作ったものを着て、食べて、誰かが作った家に住むことを、〈買い物するために生きてるのか?〉と問うところ、私としてはそんなわけないだろと笑い飛ばしたいのに、実際のところそれが現実なのでは…と気づいて笑えなくなってしまったよ。