乗代雄介さんの『旅する練習』を読んだ。とてもよかった。
小説家の叔父と、女子サッカーの名門中学に進学が決まった姪・亜美の物語。コロナ禍で小学校が休みになった春、ふたりは我孫子から鹿島まで数日間の徒歩旅行に出かける。叔父は訪れる先の風景を描写しながら、亜美はリフティングやドリブルをしつつ宿題の日記を書きながら。
利根川沿いの自然を背景にした、少女ののびやかな成長物語…なのだけどそれだけでは終わらない。最後まで読むと世界の見え方が一変する。ほんの一瞬で。余韻があまりにも大きくて、読み終えて3日経つ今も心がざわざわしている(いい意味で)。
以下、ネタバレあり。
物語は叔父の目線で、叔父本人の手による記録という形で構成されている。亜美の無邪気さや素直さが愛情に満ちた語り口で書かれているのだけど、亜美がこんなふうに話した、こんなふうな成長を見せた、こんないいところがある……という描写の数々に、叔父の愛情はちょっと過剰気味ではないか?と感じる部分があった。
一方、風景描写はトーンがまた違って、目線は淡々と冷静ながら細やかな文体。自然への興味や畏敬が伝わってきて、草木の状態や鳥の様子、空の色などが鮮やかに目に浮かんでくる。
随所に文豪の詩歌や散文の引用がされていて、叔父の解釈や感想が差し込まれているのもいい。文学史上のエピソードや歴史への理解をそっと深めさせてくれる。そして、先人たちが残した文章には、それを書いた人の記憶や想いが宿っているのだということをあらためて気づかせてくれる。
そんな穏やかでさわやかな旅の記録に、ときおり表現上の違和感を覚えてあれっ?となる。叔父は現在進行形の出来事を語っているはずなのに不意に文章が過去形になったり、あとから思い返して書き直しているという体裁になったり。気のせいにしては妙に引っかかるこれらの表現に、読みながら不安を感じる。何かが静かにこわれていく不穏な気配。
そして迎えるラスト。まさかが半分、やっぱりが半分で言葉を失った。信じたくなくて、この展開は本当に必要なのか?とも思った。でもこの展開でなければ、この旅の記録は生まれていないんだよね。叔父にとって書くことがいかに切実なことだったのか、あとから物語を振り返るとよくわかる。そして、亜美を見つめる叔父の文章に愛情がたっぷりにじみ出ていたことも十分すぎるくらい納得できる。叔父と同じ気持ちでこの旅路を思い返すことができるようになる。目にした景色や亜美との会話のひとつひとつが読者にとってもかけがえのないきらめきをもち始めて、再び冒頭から読んで旅をなぞりたくなるのだった。
読み終えてひしひしと、「書かれたもの」や「書くということ」がもつ力強さを頼もしく思う。書くことによって、あの日のあの出来事は確かにあったことなのだ、その事実は今後も揺らぐことがないのだと自分に示せる。そして書いたものが形に残る限り、そこに書かれていることはずっと消え失せないという希望になる。結末には賛否両論あるみたいだけど(それも無理はない)、私は支持。本を閉じたあともこんなに思いを巡らせてくれて誰かと語り合いたくなるなんて、よいものを読んだ。