川上未映子のエッセイ集「人生が用意するもの」(新潮社)を読む。
川上さんの文章にはクセがあるというか個性が強いので、好きな人は大好きだし、そうでない人には読むのがしんどいだろうなという、そういうタイプ。私は文章も好き、視点も好き、さらにご本人の外見が大好きである(美人だから)。
このエッセイの中で、ハッとするくらい好きな箇所があった。
電車の中で見かけた家族連れに対して川上さんが抱いた感覚についてのくだりである。
(以下引用)
わたしが今見ているものはまごうことなき「現在」のできごとのはずなのに、目の前の家族の光景は同時にこの家族の過去であって、未来の家族が思いだすかもしれない記憶に立ち会っているようなそんな感覚が拭えない。極端にいえば、生きている人に会っているのはそのまま死者に会っているのとあまり変わらない。
今ここにいる家族連れを目の前にして、これはすなわち、未来の彼らにとっての「過去」であるのだということを川上さんは感じていて、しかも小学生のころからそんな感覚をもっていたそうなのだけれど、これを読んで私は、「そんな感覚があるのか!」という驚きをもったと同時に、「感覚」なんていう抽象的かつ主観的な内容をこうやって文章で的確に表現して伝達し得ることにも、何だか無性に感動した。今まで自発的には感じたことのない感覚だけれど、言われてみれば確かにその感覚を想像することができるし、この感覚について自分でも考えてみたい。文章を読んでこんなふうに影響を受けるんだなということが、なんというか今さらびっくりの体験。
それから、川上さんが、自分の人生に絶対これはないなと思ってるものが三つあるよ、というくだり。その三つというのは「スピリチュアル」と「オーガニック」と「ガーデニング」なんだけど、でもおかしなことに最近ちょっとガーデニングが楽しくなってきちゃってどうしよう、という話。「これはちょっとないわ」というものとしてこの三つが並ぶところ、その中でうっかりガーデニングにはまりつつあること、この面白さの感じがねえ、まったく絶妙すぎてしびれます。
というふうに川上さんの著作が好きな私だが、エッセイばかりを読んでいて、実は小説はまだ1冊しか読んだことがない。本を手にはとるのに、なぜか中身を読みはじめられないでいる。